愛を疑ってかかってはいけない
彼が信じられなくなった彼女の場合。
「彼の愛が信じられない」と、その女性はつぶやいた。
お見合いではじめて会ったのが半年前。
それからほぼ週一度のぺースでデートをつづけてきた。
お互いの両親も結婚には賛成で、周囲が見ても似合いのカップル。
なんの文句もつけようがないといったところらしい。
相手は、真面目なサラリーマン。
一流とされる大学を出て、現在の会社に入り、仕事もよくできるらしい。
これまでの人生を見れば、つねに努力の影があり、いいかげんなところは考えられない。
充分に信じていいような男性なのだが、その愛情に関してだけは、「なぜか信じられない」のだという。
つまり、その相手が求めているのは、平和な結婚生活とか、常識的な人生とか、仕事における信用などで、「決して、わたしというひとりの女ではないような気がする」というのである。
彼女としては、相手は自分でなくともかまわないという物足りない感じなのだろう。
世界にただひとりの、個性を持った自分を愛して欲しいらしい。
実際、もしもこの彼女に対して、激しい言葉と態度で、熱烈な求愛を捧げる男性が現れたなら、すっとそちらへなびいてしまうのではないか。
そんな危なっかしきすら感じさせるのである。
これはじつに難しい問題だろう。
運命の赤い糸にとらわれすぎていませんか
こういう場合、まず指摘されるのは、「では、あなた自身はその相手のことを、ひとりの人間として愛しているのか」ということだろう。
ところが、「それもわからない」というのである。
人間として立派だと思うし、信頼に値する人とは思っても、この世でただひとりの男性として愛しているかというと、わからなくなってしまうのだそうだ。
たしかに、そんなものだろう。
愛情とか、結婚というものに対して、過大な期待を持つ人が、しばしば陥りがちな不安である。
ある落語家が、好んで使った小話にこういうものがある。
「あんたみたいによくできた女が、どうしてあんなろくでもない男といっしょになったのさ?」
「だってぇ、夜、寒いんだもの」
こういう女性だったら、絶対に持つことのない疑問なのだが、とかく理想を求めがちな女性は、どうしても〈この世でただひとりの相手〉ということを考えてしまう。
しかも、いったんそんな考えにとらわれてしまうと、愛情というものがきわめて脆く、あやういものにさえ思われてしまうのである。
いまの小さな幸せを大事にしたい
だいたいが、ひとりの人間がこの世で出会える異性の数なんて、たかが知れているのである。
ひとつの個性と、きわめて相性のいいもうひとつの個性というのは、たしかにあるのかも知れない。
だが、そんなものを求め出したら、それこそキリがなくなり、たえず〈より相性のいい個性〉を求めつづけるハメになってしまうという具合にだろう。
しかも、男女というのは難しいもので、一方から見れば理想的であっても、もう一方から見たらそうでもないケースもある。
むしろ、そっちの方が多いだろう。
とすれば、そんな相手を探し続けるだけで、一生なんてあっという間に過ぎ去ってしまうのである。
もちろん、信じるに値しない愛や男というのも、この世には存在する。
口先だけの愛情や、人を平気で裏切るような男もいる。
そういう場合は、さっさと見切りをつけるのが賢明というものだろう。
だが、考えすぎるのも、これまたよくない。
結婚というシステムに男女をおさめるには、適度な妥協というものはかならず必要になってくるのである。
妥協は嫌だから、結婚というかたちを取らず、愛が信じられなくなったら別れたいという人もいる。
それはそれで、ひとつの選択だろう。
愛などというのは、あまり分析したり、疑ってかかったりするのには、きっとふさわしいものではないのだろう。
それよりも、毎日おいしいお茶を入れてあげるとか、帰ってきたときに温かく迎えてあげるとか、そういう具体的な努力を積み重ねていくことが肝心なのである。
そういう日々の努力の先に、ぼんやりと見えてくるもの。
それが愛の正体というものではないだろうか。
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