さよならをムダにしないための悲しい気持ちの取り扱い方
二年間つき合った恋人との関係が終わり、今、心の中に穴があいたようで、定然とした日々を過ごしています。
仕事に行っても力が抜けた感じで、やる気がなく、手につきません。
家にいてもなにか空虚で、心が休まりません。
彼の笑顔、彼の背中、 彼との楽しかったときの状況が想い出され、泣いてばかりいます。
あきらめきれず苦しんでいます…
でも、このままではきっと病気になってしまうと思うので、早く前向きな生き方をしたいんですが…
泣いて感情を吐きだす哀れを無くす作業
私のもとには失恋の痛みを訴えてくる話が多く舞いこんでくる。
「別れは新しい出会いのはじまり」などと言っても、それは慰めにはならない。
恋人を失った悲しみ、描いていた幸せな夢が消えた失望感。
去っていった相手に対する怒りなど、といった感情は、そんな言葉一つで消えるものではないだろう。
もっと時間が必要だ。
時が人を癒すというのは本当なのだ。
でも問題は、その時をどう過ごすかだ。
去っていった彼をあきらめきれずに、過去をふり返ることに時間を費すのか。
それとも、悲しみの感情を吐き出し、消化するために費すのか。
失恋など、自分にとって大切であった人(物も)を失ったときに生ずる悲しみを抑圧せずに、泣くことによって表出することが心の健康(ときには体の健康にも)を維持するのに欠かせない。
この悲哀の作業(悲哀の消化作業ともいう)をするためには、時間がいる。
一朝一夕でできることではないのだ。
時聞をかけ、別離の体験によって生じたさまざまな感情と正面から対面し、きちんと消化する作業を行う。
そのことで、出来事の状況がクリアに見えるようになってくるのだ。
あきらめとはあきらかに見ること
ここで、あきらめについて一言。
別れに至った恋人との関係や、彼の本当の姿、自分の心の裡、そして出来事の状況などもはっきり見えてくるものが多くある。
このように物事がかあきらかに見えるようになることが、あきらめを可能にするのだと思う。
そもそも、あきらめには二つある。
一つは、無念だけれども仕方がない、といった消極的な心の構え方。
もう一つは、かやむをえない状況を受け入れる々という積極的な心の構え。
本来、さよならという言葉は、左様ならば、そうであるならば、という(接続調)が変形して、別れの言葉として用いられるようになったものだ。
そうか、わかった。
では…というニュアンスを持った言葉なのだ。
つまり、さよならとは、積極的なかあきらめ。
あきらかに見えるという心の構えを表わす言葉なのだ。
つまり、失恋の苦しみから抜け出すには、「この失恋の状況をかあきらかに見る」ことが欠かせないのだ。
あきらかに見ることで、あなたは、彼にも、彼との過去の時間にもかさよならを言おうという、心の構えをとることができるようになるのだと思う。
彼からのかさよならだけではなく、私も彼にさよならを言う。
こうして受身から主体的なスタンスに変える。
これが失恋の苦しみから抜け出るのに必要なのだと思う。
受身のスタンスだと、いつまでも後ろをふり返り、流れ去ってしまったものを追いかけるという追憶の時間に浸ることになる。
これはムダで、無意味だ。
流れ去った時はもう戻ってこないのだから。
反して、主体的になることで、過去を断ち切ることができるようになる。
流れ去ったものから、目や心を離し、今の時、今の自分を生きることを可能にする。
そこにエネルギーを注ぐことができるようになる。
ところで、人生における失恋という悲しい出来事には、一つのボーナスがついてくるのをご存じだろうか。
これは神サマのいたずらか、やさしさかわからないが、失恋の苦しみを耐え、絶望と悲しみに満ちた暗いトンネルから抜け出るために、神サマは一条の光りを灯してくれている。
そのボーナスとは?
人生は別れの連続。
つまり、失恋の体験によって、さまざまな喪失(そうしつ)体験のつみ重ねが人生であることを改めて教えてくれる。
それが失恋という体験にともなうボーナスなのだ。
考えてみよう。
人生は誕生の瞬間から喪失(そうしつ)体験で始まる。
やすらぎと温もりに満ちた母親の胎内との離別。
これが人生の最初の大きな喪失体験だ。
母胎と別れること、さよなら(別れて、この世に生まれる時がきた。さようならば)を言って母胎から切り離なされるという別れ。
それにともなう痛みを体験することなくして、新しい世界に誕生することはできないのだ。
この最初の大きな喪失体験から始まる人生には、さまざまな別れの体験が待っている。
誕生から成人までの過程でいくつもの喪失体験をくり返しながら生きていく。
これが人生だ。
遊び友だち、親しくなった友、教師たちとの別れ。
引っ越しなどにより住みなれた環境との別れ。
かわいがってくれた祖父母の死による別れ。
それに、失恋による別れ。
それも人によっては何回もの別れ。
これらのすべては、いわば「小さな死」を意味する喪失体験だ。
この「小さな死」をくり返し、つみ重ねながら、私たちは人生の最後に待っている「大きな死」に向かって生きている。
これが人間の人生なのだ。
だれしもが避けることができない人生である。
もちろん、これらの別れ・喪失体験に対応するやり方は人によって異なっている。
一つひとつの別れとしっかり対面し、その別れの意味を考え、その体験を受けとめ、消化することで自分の成長のための糧にする人と、それを劣る人がいる。
あきらかに見ることをせず、失ったものにさよならが言えず、悲しみと絶望の暗闇の中にさまよいつづける人がいる。
そういう人たちに私は語りかける。
後ろを向いていれば、その自分の影で足もとはいつまでも暗い。
向きを変え、トンネルの出口から差し込んでくる光に向かって歩み出せば、足もとが少しずつ明るくなり、道が見えてくる。
だから、向きを変えよう。
光りに向かって第一歩を踏み出そう。
光りに向かって歩み出せば、だんだん道が聞けてくる。
自分の姿も見えるようになり、やがて明るい世界、別の世界への入口にたどりつく、と。
私のもとにくる相談は、失恋の悲しみのどん底から、その悲しみを訴えてくるものだけではない。
「失恋したことで」「失恋の体験を通して」、「自分がさよならを一言えるようになったことで」、本当の愛になることができた喜び、自分にとって本当の運命の人と出会うチャンスを与えられたという喜びを喜ぶ声も、数多く送られてくるのだ。
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