世の中には恋愛と同じ数だけ失恋がある?
私が最近、とくによく思うことがある。
それは世の中には、恋愛と同じ数だけ失恋があるということだ。
恋愛を経験したことがある人に、「失恋の経験がありますか?」とたずねてみよう。
きっと十人中十人は「ある」と答えるのではないだろうか。
なぜ?
人は変わるものだから。
人の心も変わるからだ。
そもそも、人はつねに成長を続けながら変化している生きものではないか。
その成長にともない、ものを見る目も、見る対象も変わってくる。
相手に求めたり期待することも変わってくる。
「人間は変化する生きもの」というのが、古今東西、不変の命題なのだ。
ということは、自分の恋人の心も変わる可能性があり、恋人が魅力を感じる対象も変わると考えるのが自然なのだ。
それゆえ、昨日まで心を惹かれていた相手から心が離れ、別の新しい相手に目や心が向けられたとしてもおかしくないし、いけないことでもない。
しかし、人間なら誰しもが体験するこうした変化を受けいれることができないとき、その人の心に葛藤が生ずるわけである。
恋人どうしが双方同時に変わるのであれば、さほど問題にはならない。
でも、だいたい、どちらかが先に変わるというのが普通だろう。
そのときに、相手の変化にうまく対応できないことが、葛藤の原因となってしまう。
失恋という現象は、こういった状況の産物である。
人生は「愛を学ぶ学校」なのです
次に思うのは、人はなぜ失恋の苦しみを体験しても、再び恋愛をするのかということだ。
失恋の痛みに苦しんでいる最中には、「もう二度とこんな苦しみを味わうのはイヤ。恋愛はもう懲りた」と思っていたのに、いつの間にか再び恋愛をはじめていることがある。
どうして人は懲りずに、再び恋愛し、そして失恋をくり返すのだろうか。
もちろん、その心のメカニズムは人によって異なるに違いない。
すべての人に共通する公式のようなものはない。
でも、恋愛と失恋をくり返す人間の行動には、ある普遍的な真理が宿っているように私は思う。
そもそも、人間が生きる目的の一つには、人を愛することを学び、「愛する人」になることがあるのではないだろうか。
それが生きることのすべての目的ではないにしても、一つの大きな目的であると私は思う。
人は、男と女が愛しあう行為の結果として、この世に生を受ける。
そして親や他人から愛されることによって愛を学び、やがて他人を愛することの喜びを体験しながら成長していく。
たとえば、ある人に何らかの魅力を感じ、好感を抱き、心を惹かれる。
友情や思慕の情に駆られ、相手との親密な関係を築きはじめる。
やがて、それが恋愛関係に発展する、というように。
いわば、人生は愛を学子校なのだと思う。
であるならば、そこでは学ばねばならない科目がいくつもあるはずである。
友情の育て方、愛情の育み方。
反対に、友情、愛情を失ったときに立ち直り、新しい人生を歩みはじめる方法も。
つまり失恋は、愛を学ぶ学習の一つの家庭であると考えられないだろうか。
一つの失恋を体験することは、いわば愛の学習の一つの教科をクリアすることなのだ。
愛を学ぶ段階のワンステップが失恋であり、その失恋から新しい恋愛という次のステップに挑戦することで、人は成長していくのだろう。
また、こんなふうにも考えられる。
赤ん坊は、いきなり歩くことを学ぶわけではない。
最初は机や誰かの手につかまりながら、少しずつ歩き方を身につけていく。
転んでは起き、一歩、二歩と歩いては転び、また起き上がり、歩き出す。
これをくり返しながら、どうやったら転ばないで歩けるかを少しずつ学ぶのである。
一回転んで、「もう自分は歩けない」などと嘆いたりしない。
また、歩くことをあきらめることもしない。
これが赤ん坊だ。
いや、それが人間なのだ。
同じように、人間は一度失恋を体験しても、その痛みがどんなに大きくとも、「もう自分は人を愛することはできない」「恋愛ができない」などといっ て、絶望的になったりしないのである。
たしかに失恋で受ける心の傷は、人間が体験する痛みの中でも最大級のものかもしれない。
死にたいと思うほど絶望的にさせてしまうものかもしれない。
でも人生をあきらめず、自分の力を信じて立ち上がる。
それが人間の生き方なのだ。
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