「あそび」と割り切ったつきあい「淡泊な恋愛」を楽しむ心理
ある若い医師がこんなことをいった。
「僕のことを女好きだというやつがいる。それは本当だ。しかし、僕の仕事、特に手術は生死にかかわるから緊張することが多いんだよ」
「だから緊張感から自分を解放するには女性とつきあうのがいちばんの薬なんだ」
これは、すべての医師が女好きだといいたいわけではない。
男女のつきあいの中には、この医師の例のように、気分転換のつきあいもあるということだ。
つまり、 意味あいの強い男女づきあいである。
これを不誠実だと断罪する人もいるだろうが、この人にしてみればゴルフを楽しむように異性との交歓を楽しんでいるだけである。
こういうつきあいの意味はどこにあるのか。
ひとつには 、役割から一時的に抜け出すという意味がある。
社会で働く人間としての権限と責任の束縛から離れて、自分個人に戻るということである。
ビジネスマン、あるいはOLらしくふるまう必要はないし、仕事の成果をあげねばという重圧もないところで、解放感にひたることができる。
これが緊張感、ストレスの緩和剤になる。
もうひとつの特徴としての男女のつきあいの特徴は、感情同士が深く交わることがないということである。
ゴルフ仲間であれ、どんなに楽しい時を過ごしても、お互いに私的世界を分かちあうことはあまりしないものだ。
身の上相談でもしようものなら、「そういう話はやめようよ。ゴルフがつまらなくなるからさ」などと敬遠されるのがオチである。
感情が深く関与しないから、人間関係は淡泊なものになるが、それがよいのである。
その恋愛は遊びか?本物か?
恋愛というのは、やりとりする感情(劣等感、希望、悲しみ、喜びなど)の種類が多様だし、価値観(教育、政治、趣味、職業など)のやりとりも多様である。
加えて生い立ちや収入、悩みなどのプライベートなことについて包み隠さずに伝えあうのが特徴である。
一方、遊び程度のつきあいはいくら好きで気があうといっても、プライ ベートなことに深く立ち入ったり、自分の主義主張を語りあうことはあまりない。
恋愛よりずっと、心の接しあう局面が少ないのだ。
恋愛関係にある二人は心の接しあう局面が多いから、心の定着の度合いも強くなり、なかなか別れられなくなるもの。
だが、遊びのつきあいは思いこがれるほどの心のふれあいがないぶん、しばらく会わないだけで心がかれていく。
なんの執着もなく別れられることが多いのである。
ここをよく理解し、把握していないと、本来遊びがすんだのだから別れたほうがよい関係であるにもかかわらず「私はあの人を愛している」と思い込んで、幻想の恋愛に陥ることがある。
こういう関係の場合、会っている時以外は互いに分かちあう何ものもないから、いきなりの会話が終わってしまったり、虚しさを感じたり、二人でいる時間そのものが気づまりになったりする。
何も話すことがなく、あっても会話がかみあわないのなら、その二人は恋愛関係にはないと自覚したほうがよい。
遊びのつきあいをするときに注意しなければいけないのは、遊び以外の活動領域をもっているかどうかの確認をすることである。
打ち込める仕事はあるか、果たすべき責任を負っているか、心を許しあえる友人はいるか、自分ひとりでも楽しめる世界があるかなど。
自分自身に問うてみる必要がある。
もし「打ち込める仕事はない、人に頼られているわけでもない、親友もいなければ趣味もない」という状態なら、遊びの男女関係は、勢い人生の楽しみの全てになってしまう危険性がある。
遊びは本来、人生の楽しみの一部のはずで、その人間関係だけに溺れてしまうのは大人の人生ではないのである。
人生遊び一色で占められているのは、子ども時代だけに限るべきである。
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