真の男女関係を得るために何が必要なのか
われわれ現代人にとって「関係」と真に呼びうるような関係が、どれだけあるだろうか。
例を性関係にとって考えてみよう。
いかに多くの性関係が、実は真に「関係」と呼ぴうるものでないかが分かる。
それは、その関係を結ぶにいたるプロセスを考えれば分かる。
男は、あるいは女は、ある種の偶然をよそおう。
たとえば、いかにも自分は女との性関係を求めているのではなく、たまたま女の部分に触れてしまったのだというような態度をとる。
あるいは、性関係を持とうとする意図がないような顔を自分にも相手にもしながら、偶然そうなった顔をする。
つまり、たまたまそうなってしまった、たまたま、こと志に反してそうなってしまった、という素振りをするのである。
私の教え子の男子学生が、あるとき次のように話してくれた。
まず女の子をホテルに誘うとき、「もっと静かなところへ行こう」とか、「夜どおし話せるところに行こう」とか言って誘うのだという。
そして、そのとき、おそらく二人は、性への意図を自分にも相手にも隠しているにちがいない。
もちろんいま話しているケースは、お互いに好き同士という間柄での話である。
お互いに恋愛感情をもっている間柄であって、感情ぬきでの性関係について言っているのではない。
そして二人は、「夜どおし話をするため」あるいは「静かに食事をするため」の場所を求めて、そのつもりで入ったところ、たまたまそこには、そのうえに性行為の可能な場所だったので驚いた様子をする。
かくて二人の間に関係ができる。
あるいは「下宿に遊びに来い」と言い、「食事だけを作ってあげる」と言って下宿に行く。
そして、たまたまそうなってしまったということになる。
それは、映画によくある物語の筋ではなかろうか。
山に散歩に行き、突然、予期しない雨が降りだしてきた。
そして、小屋にたどりついた。
寒くて仕方がない。
ぬれてしまった 着ているものを脱がなければ凍え死んでしまう。
そこで、命を救うために仕方なく脱ぐ。
そして焚火が燃えて暖かくなる。
二人は我慢できなくなって抱き合う。
そして、いかにもそれに驚いたような顔をする。
おおよそ、こうした関係にすべて共通するのは「その意志」がなかったにもかかわらず、雨というやむをえざる自然現象によって、あるいは静かな食堂と思って入ったという無知によって、そこにこと志と違って関係ができたということである。
それは、すべて無知という無責任、あるいは人間の力のおよばない自然現象という無責任、それによって、いわば強引につくられてきた関係である。
一言ってみれば、こうした関係は本質的には、親子関係や兄弟のような、自分の力によらずに生まれる前から決められ ているような関係と同じである。
したがって、その地位も獲得的なものではなく、先天的なものである。
明確な意志を持つということ
結婚について行なわれる性関係も、これと本質的には同じではなかろうか。
社会的に許されて行なわれる行為である。
それは、簡単に言ってみれば欲望の禁止が解かれて、その社会の許可によって欲望の処理として行なわれるものでしかない。
そこに、自らの「明確な意志」がないのである。
フロイトが言うごとく、それは自らの欲望の対象を求めて他者と関係していくことでしかない。
真に関係の名に値する関係とは、そこになによりも「明確な意志」を必要とするものではなかろうか。
真に性関係と呼びうるに値する関係とは、社会の禁止にもかかわらず、いや禁止されているか否かを度外視して、自らの明確な意志によって、一切の偶然を排して行なわれる関係である。
つまり、食事のつもりで入ってたまたまそうなってしまったというのではなく、まさにそのためにのみ、そこに行くということである。
その目的だけのために行くということを自らの意志と責任において、自分にも相手にも明確にさせることである。
けっしてそうすることが社会的に許されるからするという結婚ではなく、許されないにもかかわらず、自らの明確な意志において、あらゆるものに反逆して、その相手を獲得するということである。
そして、そこにおいては、事後になって、魔がきしたとか、一時の酒の酔いのためにとかいったいっさいの言い訳が不可能なものでなければならない。
したがって、そういうようなムードに巻き込まれそうになってしまったというのではなく、自らの明確な意志によってその雰囲気自体をつくりあげた、ということでなければならない。
あとになって「あの時は自分で自分が押さえられなくなってしまった。自分でもどうしょうもなかった」というものではなくて、まさに自らの意志において、ただそれだけによって実行するということである。
「人間は弱いものだ。そういうあやまちはよくあるよ」といった種類のものであっては、断じて関係とは言えない。
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