特別緩いされないと不満な人の心理
自分は他人から特別に扱われてもいい人間である、自分は特別に幸運に恵まれるべき人間である。
このように感じているからこそ、そう他人から扱われないと不満になる。
自分は他人から特別の注意を期待できる、と思っているのに特別に扱われないと、「私は不幸だ」となる。
そこで、普通の人なら何も感じないことを不幸だと感じ、「私はこんなに不幸だ」と、自分のことを周囲の人に訴えることができる。
周囲の人から見ると、その人はそんなに不幸ではない。
しかし、周囲の同情を求めて自分の不幸を訴えている人は、「私は不幸だ」と本気で思っている。
自分が何か言えば、「あーそー、あーそー」と皆が注意を集中して聞くことを期待している。
特別に扱われてしかるべきと思っているのに、そう扱われなければ不公平だと思うのは当然である。
普通の人なら気にならないくらいわずかに無視されたことを、いかにも酷い目にあったかのように、惨めさを強調する。
他人を傷つけておいて、自分が被害者のような話をする。
彼らは自分を被害者に仕立てあげる天才である。
たいして何もしていないのに、「私がこんなに一生懸命したのに、あの人が」と自分を被害者にする。
特別の注意に値すると思っているから普通に扱われると不公平だと感じるし、不公平だと不満になるから、「私は不幸なのだ」と周囲に特別の注意を要求するようになる。
これは悪循環である。
つまり、特別の注目を要求する根拠が、「私は不幸、こんなひどいこと」なのである。
そう思っているから何かあると、「私はこんなに不幸」という訴えが始まってしまうのである。
ちょっと病気になる、それをまるで大病にでも躍ったように大げさに言う。
しかもあわれっぽい声で語る。
風邪ひとつひいても死の瀬戸際まで行ったかのような話になる。
少し損をしただけなのに、大損をしたかのように周囲に宣伝する。
そして、私はこんなに不幸なのだから特別に扱われて当たり前と思う。
このように悪循環して社会的に孤立していく。
なんでこんなおかしな考え方をしてしまうのか。
それは心が怪我をしているからである。
しかし、心の怪我は肉体の怪我とちがって社会は特別扱いをしない。
肉体が怪我をすると車椅子があるが、心が怪我していても車椅子はない。
神経症という心に怪我をした人は車椅子を要求しているのだが、社会はそれを認めない。
そこらあたりで神経症の人は社会的に孤立していく。
社会的な扱いは別にして、心が怪我した人と肉体が怪我した人とのちがいは何か?
肉体が怪我した人は自分が怪我したということを知っているし、それを認めている。
肉体を怪我した人は自己中心的ではない。
したがって、社会とうまく折り合いをつけられる。
しかし、心が怪我した人は自分が怪我をしているという自覚がない。
そしてそれを認めない。
悪いのは自分ではなく、自分を特別に扱わない周囲の人なのである。
自分は正しいと思っている。
自分は何も責任がないと思っている。
肉体が怪我した人は自分以外の人も怪我をしていると思っているし、社会が自分のことを第一に扱わないとしても怒らない。
しかし、心が怪我した人は自分一人が悩んでいるのである。
相手の存在を認めない。
相手には相手の事情があり、相手は相手で頑張っているのだということを認めない。
相手に好意を期待する限度があるということを認めない。
つまり自己中心的である。
そこで社会と折り合いをつけられない。
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