愛はすべてではない
迷いのある人は「愛のない人生は無意味である」「愛はすべてを解決する」と信じていることが多い。
もし、この考えが本当なら、世の中に神経症者や非行者はもっと少ないはずである。
たいていの親は愛をもって育児には原点がいるからである。
にもかかわらず、愛をもって育てても、子どもが問題を起こすることがよくある。
一方、幼少期から愛に恵まれない生育歴であったにもかかわらず、立派な社会人になっている人も少なくない。
人生のある時期、愛する人をもたず愛してくれる人もいないというきびしい状況におかれたからといって、人生は最悪ではないのである。
最悪の人生とは、自分が自分の人生の主人公であることを忘れ、人間関係にふりまわされるととである。
人間の愛には栄枯盛衰がある。
人間同士の愛には波がある。
これにしがみついて自分の人生の舵取りを放棄すること、これが問題である。
「実直」「良心的」な人は損をする
いわゆる実直な人は、相手になじられると真面目に反省する。
そして、ますます実直になる。
船を見捨てて逃げるべきではないと自戒する。
これが船長なら、話は別である。
船長は責任者として、最後まで船にとどまるのが常識だからだ。
しかし男女関係に、船長はいない。
お互いに半々の責任をもって営んでいる人間関係である。
自分だけ全責任を負わされていると誤解するから、相手への罪ほろぼしのためにせっせと奉仕するはめになるのである。
世の中には「投影の心理」といって、自分を防衛するために、相手に先制攻撃をかげる人がいる。
いわゆる責任回避である。
よく引用される例は、テニスでボールを打ち損じた人がラケットをたたきつける心理である。
打ち損じた自分の責任を棚に上げて、ラケットに責任を転嫁している。
これと似たことを恋人、配偶者、部下、生徒に対して行なう人がいる。
そして責任転嫁された良心的なこれらの人たちはこれを真に受けて、ますます自分を奴隷状態におくようになる。
こう考えると、誠実 ・実直 ・真面目 ・良心的な自分を手放しで肯定しないほうがよいということになる。
嫉妬心があるからといって、愛している証拠にはならない
評判のよくない上司がいるとする。
その上司が「Aさんは仕事が速いな」とほめたとする。
するとそれを聞いた同僚のBさんもCさんも、ほめられたAさんがちょっとねたましく、おちおちしていられなくなる。
別にその上司を好いているわけではないのに、自分のことも認めてもらいたいから、つい嫉妬に似た気持ちを抱くのである。
嫉妬心は自己保存の本能に由来していると、私は思う。
だから自己保存をおびやかされると、半ば本能的に愛と承認を得たくてはりきるのである。
こういう場合には、よほど冷静に考える必要がある。
巻き込まれないことである。
果たして自分はこの人を好いているのか、腹は立っていないのか、自分は愚弄されていないか、自分の権利や尊厳はおかされていないか、自分は「その他大勢」扱いにすぎないのではないか、と吟味することである。
恋人なしでも自力で生きられる
迷う人間は「恋人なしには自力で生きられない」という考えをもっている。
これを再検討することである。
たとえば「今や自分は乳児ではない。親(恋人)の支えなしでも生きられる」とか「語り合える相手がいるにこしたことはないが、それを求めるあまり、人生で自分は何を成し遂げたいのか(ライフワーク、人生計画)がはっきりしない人生にならないほうがよい」などと思考を変えるべきである。
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