大好きな人を忘れる方法や諦める方法は?

自分の誠意が誰にでも通用すると思うな

人間は自分にとって大切なものが手にはいると思えばこそ努力もするのだ。

大切なものがあればこそ意欲もわくのだ。

大切なものが手にはいらないと分かっても、それにもかかわらず努力せよ、などという道徳がこの世に存在していいのだろうか。

自分にはこの女を幸せにする条件がそろっていないのだ。

自分はこの男を幸せにしてあげようと努力してはいけないのだ。

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そう思った男や女に、いったい努力しろなどと言って何になるのだろうか。

自分の善意や努力が人を傷つけるのだ。

そう思った男や女に、ああ、人はいったい何を説教しようというのだ。

「私はあの人を幸せにしてやる」などと言って、相手の気持ちも考えずに行動するほど、すべての人間は図々しくはないのだ。

 

時には、いま私があの人にしてあげられることは、あの人のそばを離れていくことだけなのだ。

そう思う男や女のほうが、より激しく相手を愛していることだってある。

自分が相手をどんなに深く愛していても、けっしてそれだけでは相手を幸せにできないのだということを知らない男や女は、勝手なことを言う。

相手がじっと耐えているのも気づかずに愛情の押し売りをして「私はあの人を愛している」などとはしゃぐほど、すべての人が愚かではないのだ。

 

自分が情熱に燃えていると、まわりも情熱に燃えていると思ってしまう。

革命家は、しばしばこのことで失敗する。

母親は自分がおいしいと、子供にもおいしいはずだと思う。

人間は自分が元気だと人も元気だと思う。

なぜ元気をださないのだろうと思ってしまう。

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人間というのは、自分のものサシで他人を計ってしまうのだ。

自分が家庭を持ちたいと願っている時、他人もまたそう願っていると思う。

自分の幸福の尺度で他人を計る。

しかし、自分にとってバラ色の幸福が、他人にとってはイバラの不幸だということだってあるのだ。

愛情の押し売りは人聞にとって恐ろしいことなのだ。

 

自分があの人といっしょに暮らしたいと思うと、あの人も自分といっしょに暮らしたら幸せだろうと思いがちなのだ。

だが、けっしてそうではない。

「私がこんなに愛しているのが、あなたにはわからないの」と愚かな女はいう。

 

しかし賢い女は、人間とはそのようにはできていないのだと知っている。

知っていながら、人を死ぬほどに愛してしまったらどうするのか。

断念するしかないのだ。

そうして大切なものを失してしまった人びとは、この世の中にいくらでもいる。

その愛を断念せずに断行してしまえば、自分ひとり幸せになって、まわりを不幸にするだけだ。

 

愚かな女は、私がこんなに愛しているのだから、そんなはずはないと思える。

しかし、すべての人間がこれほど愚かではないのだ。

たとえ私がその人のために命を捨てたとしても、その人を幸せにすることはできない。

そんなことだってあるのだ。

 

一生を、ただその人一人のために捧げても、その人を幸せにはできないという人間の限界を知らない人は、幸せ者と言うべきだろう。

それはちょうど、ある人にとって絵画がどんなに価値があるとしても、別の人にとっては政治以外には興味がないというのと同じである。

愚かな母親は子供に言う。

 

「私がこんなにおまえのことを心配しているのがわからないの?」

母親が母親の流儀で人に接して、どんなに努力したって、それゆえに子供が非行化することだってあるのだ。

自分の流儀が誰にでも適用する。

 

そんな世界をユートピアというのかもしれない。

そんな世界にあっては、人間は必ず救われる。

努力しただけ報われる。

だが、この世の中はそんな世界ではない。

 

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